赤の他人って、人が赤いわけじゃない
当たり前だけど、赤の他人という言葉を初めて考えたのはいつだろう。子どもの頃から当然のように使ってきて、赤が何を意味しているのか一度も疑問に思わなかった。
ある日、外国人の友人に赤の他人を英語で説明しようとして詰まった。complete strangerでいいとは思うけど、なぜ赤なのかを聞かれて答えられなかった。赤って何?人の色じゃないでしょと笑われた。そりゃそうだ。
調べると、赤は色の赤ではなかった。しかも語源が二つの説に割れていて、どちらが正しいかも決着がついていない。
有力説その一、赤は明らかな、まったくのという強調の接頭語
赤の他人の赤は、明らかな、まったくの、という意味で使われる強調表現という説がある。赤の他人はあきらかな他人、まったくの他人という意味になる。
色の赤ではなく、強調するための言葉として赤が機能している。日本語には赤を強調に使う表現が他にもたくさんあって、真っ赤な嘘、赤っ恥、赤裸々、赤貧、このあたりの赤も同じ用法。嘘が赤い、恥が赤い、という話ではなく、完全な嘘、ひどい恥という意味で赤を使っている。
赤という音が古来から明らかという意味と結びついていた、という見方もある。明るい、明らか、という語感が赤という音に乗っていた時代があって、その名残が現代語にも残っている。
有力説その二、サンスクリット語の水から来ている
赤の語源は本来は閼伽と書き、もともと仏前に供える浄水を意味するサンスクリット語のアルガが語源という説がある。水が冷たいように他人にも冷たい、縁もゆかりもない人のことを赤の他人と呼ぶようになった。時代が変わっていくうちに閼伽が赤という漢字に変わった。
サンスクリット語から来ている、というのが一番意外な話。仏教の供養水が語源で、冷たい水のように冷たい間柄、という意味が込められていた。仏教用語が日常語に溶け込んで、もとの意味が忘れられて定着した。日本語にはそういう単語がほかにも多くある。
どちらの説も決め手に欠ける、というのが今の状態で、語源は曖昧なまま。でも今日も全国で赤の他人という言葉が使われ続けている。
青でも黒でもなく赤という面白さ
赤の他人という言葉はあるのに、青の他人も黒の他人も白の他人も存在しない。なぜ赤だけが選ばれたのか。
日本語における赤の特別扱いを他の言葉で確認する
赤ちゃん、赤字、赤信号、赤十字、赤道、赤本。赤が使われる言葉は多いけど、どれも赤色を指しているとは限らない。赤ちゃんは赤くない子もいる。赤道は赤くない。
日本語で赤は色以上の意味を持ってきた言葉で、明るい、明らか、むき出しの、という語感が乗っている。その広い使われ方の中に、赤の他人も含まれている。色の言葉が色以外の意味を持つのは日本語に限らないけど、赤ほど多義的に使われる色はなかなかない。
他人という言葉だけでなぜ赤がつくのか、という別の見方
他人という言葉はすでに縁のない人という意味を持っている。そこにわざわざ赤をつける必要があった理由は、強調だけじゃないかもしれない。
赤の他人という表現には、ただ縁がないというより、切り捨てるような冷たさが感じられる。別れた相手を赤の他人と言うとき、もう関係ない、という断絶の意思が乗っている。縁もゆかりもない、という言い方より赤の他人のほうが短くて鋭い。この短さと鋭さが日常語として生き残った理由かもしれない。
赤の他人という言葉の使い方が会話を深くする
知っている言葉の語源を知ったとき、その言葉への見方が少し変わる。知識が言語体験を変える瞬間。
赤の他人の赤が色じゃないと知ったときの反応
赤の他人の赤って何の意味か知ってる?という問い、知らない人がほとんど。色の赤だと思っていた人に、強調の接頭語だという話を伝えると、え、じゃあなんで赤なの?という次の疑問が自然に出てくる。そこにサンスクリット語の水が語源という説を出すと、さらに驚かれる。
一つの問いから二段階の驚きが出てくる話題は、会話として止まりにくい。しかも知識として難しくなくて、誰でも知っている言葉から始まるから入り口が広い。
真っ赤な嘘と赤っ恥の赤も同じだという話でつながる
赤の他人の赤が強調の接頭語だと知ると、真っ赤な嘘と赤っ恥も同じ仕組みだという話が続けて出せる。嘘が赤い色をしているわけではなく、完全な嘘という意味。恥が赤色なのではなく、ひどい恥という意味。日常語の中に潜んでいる赤の用法が、一度気になり始めると次々と出てくる。
言葉の由来を知ると、使い方が少し変わる感覚がある。赤の他人と言うとき、ただ見知らぬ人という意味だけでなく、その言葉の重さを少し感じるようになる。サンスクリット語からやって来た冷たさ、という解釈で使うと、言葉への気持ちが変わる。雑談でそこまで行くことはほぼないけど、知っているだけで話す言葉が少し変わる気がする。

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